労使関係は搾取である。

仕事を辞めたいが辞められずにいるおっさんである。結局、辞める辞めると言いながら丸二年働いてしまった。

某所で「労使関係は搾取である」と書いたら、その文面をあげつらって「修羅の国に生きてんな」と言われた。

私はその発言に異議申し立てをしたいのだが、実際に日本の労働環境は修羅っている。修羅ではないと思っているのなら、よほど世間知らずのブルジョワなんだろう。一度ヤマザキパンの工場で日雇い労働することをおすすめしたい。

もうひとつに、搾取を含まない労使関係があるとしたら教えてもらいたい。むろん法律上では労使関係は対等ということである。これはトヨタの社長とトヨタの工員が対等ということである。まあ、しょせんそんなことはありえない。法治主義とか、民主主義を素朴に信じているタイプだろう。

アホな学者が、現代では労働者が自分で資産を増やして家や株を買うこともできる、だから現代では一概に労使関係は搾取とはいえない、と言っていた。

私はマルクスに詳しくはないけど、資本家が搾取する剰余労働とは「賃金以上の分の働き」であることを知っている。つまり労働者が自分の一日の賃金分を4時間で働くとする。しかしここで労働は終わらない。残りの(給料に含まれない)4時間を労働者は働く。これを剰余労働と呼ぶ。そしてマルクスの言う搾取とは、この剰余労働の収奪である。

労働者が給料で豪邸を建てようが、FXで成功して「億様」になったとしても関係ない。給料が1000万円だろうが、10万円だろうが、搾取されていることには変わりないのである。

そんなわけで、再度テーゼを繰り返しておこう。「労使関係は搾取である」



PS ググったら同じ考えのことが書かれていた。

労使関係とはなにか。代表的な論者のひとりであるJ・T・ダンロップJohn Thomas Dunlop(1914― )は、『労使関係制度論』(原題はIndustrial Relations Systems. 初版1958年)の序文で次のように書いている。「政治形態のいかんを問わず、あらゆる産業化した社会は労働者と経営者をつくりだす。これら労働者と経営者の地位とその相互関係は、多かれ少なかれ詳細に規定されねばならなくなる。産業社会は必然的に経営者と労働者と政府機関の相互関係との複合体として規定された労使関係をつくりだす」。このように労使関係は、「産業社会」では資本主義、社会主義の区別なく普遍的に存在する。この概念のもとでは、生産手段の私的所有形態によって規定された資本主義の搾取と被搾取、支配と反抗の対立関係が、「産業化」に伴う分業に基づく機能を異にする人々の相互間の関係として把握される。
 つまり労使関係という概念は、資本主義に固有な資本と賃労働との社会的関係=労資関係の本質を隠蔽(いんぺい)するものである。労資関係は、その形式からみれば、生産手段の所有者である資本家と、労働力の所有者である賃金労働者とを当事者とする、労働力商品の「自由な」売買関係にほかならない。しかし、労働者は生産手段を所有せず、したがって、自分の労働力を生産手段の所有者である資本家に販売し、賃金を取得しない限り生活できないという「経済的強制」を受けている。しかも、資本家による労働力の消費過程、すなわち資本の生産過程においては、資本家は労働者を指揮・統制し、労働者の剰余労働を搾取する。したがって、このような労資関係を労使関係という概念に置き換えることはできない。[戸木田嘉久](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 労使関係



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